「社交性」は生きていく上で最も重要なスキルである。
社交性の乏しい人間が成功するケースは稀だろう。
自分自身も、社交性のなさからキャリアに失敗し、敗北者の道を歩んでいる。



しかし無い物ねだりをしてもしょうがない。
割り切って非社交的な人生を謳歌するのも重要なのではないか。
今回は社交性のない人間がどう生きるべきなのかを、2冊の本から考えてみる。
僕たちにはキラキラ生きる義務などない
1冊目はお笑い芸人・髭男爵の山田ルイ53世のエッセイ「僕たちにはキラキラ生きる義務などない」。
彼の徹底した非社交的生活が綴られていて、陰キャ民としては元気がもらえる一冊である。
芸人たるもの積極的に人と関わり、ネタ作りをすべき。
そんな常識に目もくれず、非社交的に生きている。
トークのネタ作りのために積極的に人と関われといった教えがまことしやかに推奨されている。
たとえ時間の余裕があっても、ネタ探しのためにわざわざ出かける気になれなかったのである。
芸人という華やかなイメージとは真逆、社交を絶ち、生活している。
プライベートで連絡を取り合う人間は、ほぼゼロ。
筆者は長い時間を掛けて、飲み会をゼロにすることに成功した。
仕事が終われば家に直帰。休みの日に出かけることもなければ、芸人仲間と飲み歩くなんてこともなくなった。
今や、プライベートで連絡を取り合う人間は、ほぼゼロ。
ネタは人との交流からではなく、日々の暮らしの中から見つけるそうだ。
外に出て人と交流することは基本的にストレスが多い。
ラジオのネタは、無理をして探しに行くことはせず、日々の暮らしの中で起こる、小規模な事件や出来事について話したりする、「待ち」の姿勢に徹することにした。
芸人の世界では、我々の世界よりも社交への圧力が強いはずである。
そんな中で非社交を貫くためには並々ならぬ覚悟が必要だろう。
それでも生きていけるという事実には勇気づけられる。
しかし当然であるが、大きな成功や周りからの称賛は諦め、自分を見限ることは必要である。
自分で自分を諦めてやる、見限ってあげる。
自分の現状を受け入れてはじめて、自分らしい生き方が模索できるのである。
負けを認め、一発屋という現実をゴクリと飲み込んで以来、むしろ、自分という人間にしっくりくる生き方の模索ができるようになった。
もう出来ることしかやらない。
中年以降の気持ちの持ち方として大変参考になる書籍であった。
人生を半分降りる
2冊目は哲学者中島義道先生の「人生を半分降りる」。
以前紹介した「孤独について」の筆者である。

非社交的に生きようというメッセージは山田ルイ53世同じ。
細かな計算をして、「必要がない」と思ったことからはさっさと手を引く。そして、できるだけ人付き合いを制限して孤立する。
しかし、こちらは徹底した非社交生活ではなく、中途半端な非社交「半隠遁」で生きていこうという提言である。
半隠遁の要は半分だけ人を避けるということです。
半分は社会的に生きてごまかしを続ける。
社会的な立場は維持しながら、非社交的に自由に生きる。
大学に所属しながらも委員会などの業務は一切しない、というのが中島先生が実践した半隠遁の生きかた。
大学や会社に辞表をたたきつける必要はなく、月給だけもらってなるべく好き勝手なことをする。
大学はすべて自分のために利用し尽くしなさい。そして、いかに憎まれてもいいから大学内の雑用はなるべくやめなさい。
学会にしても同じこと。学会の事務局とか、総会の準備とか、論文審査とか。
若い頃にこれを読んで、なんて自己中心的な奴だ!と憤りを感じたのだが、今となっては理解できる。
出世を諦めて細々と生きるのには理想的な考え方である。
とはいえ、この生き方も自分の能力を見限って初めて可能になるのである。
まだ一花咲かせたいなどといういじましい野心を抱いているあいだは、難しいでしょう。
自分の能力と仕事を見限ったときに実践するのがいちばんよい。
また当然ながら、世間からの避難の声は避けられない。
そこをどうやって見逃してもらうかも半隠遁の肝となるだろう。
こうしたごうごうたる世間の攻撃からうまく逃れること。
世間から「あいつは気に入らないが、まっ、しかたがないか」と思われること。見逃してもらうように工夫することです。
まとめ
今回は非社交的に生きる上で参考となる書籍を紹介した。
しかしなぜこういった文章を書いているのか。
その理由を突き詰めていくと、自分がまだ「社会的成功への道を諦めきれていない」のかもしれない。
「社交はしたくないが成功はしたい」という矛盾した気持ちを抱えているわけである。
早く自分を見限って、徹底した非社交的生活へ踏み出したいものである。






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